別れを惜しむな

京都の彼氏を別れた。鼻から彼氏じゃなかったのかもしれない。

今まで私の無償の愛でなんとか持ってきたけど、今回のコロナの件でう私が危険な状態にあっても何もしないということが露わになってこれも2回目(1回目は腎盂腎炎)になる。

うちの母も私の体調が悪くても、見下した目線で「だからどうした」と言ってくる。正直こういう人間と共存するぐらいなら一人でのたれ死んだほうがましだと思った。

かといって自分は人を見殺しにするわけでもなく。私の「いいよ」「大丈夫」に甘ったれてくあぐらかいてくる人が心底憎い。

 

かといってネットで知り合ってすぐ好きになる私も悪い。紹介された人をきもいという私も悪い。死んだほうがましだが、今までに何か人の為になったことが実るというならひとおもいにやってほしい。一発で仕留めてほしい。

 

自分は双極性障害でとても人に希望を与える余裕なんてない。生きる価値もない。けど具合の悪いときに限って希望を見出すことがある。そして生き残る。どうしてだろう…。本能的には生きたいのに頭では生きたくない…。報われない認められない人生が憎い。どうして人はうわべだけで判断するんだろう。

 

この期に及んで素晴らしいピアノ奏者に出会った。Wanda Landowskaといってチェンバロ奏者でもありピアノ奏者でもある。

私はアレンジを加えるピアノ奏者が大嫌いで、クラシックをあえて聴くことはあまりなかった。でもこの人のソナタ332(ヘ長調)を聴いて感動したのが、一音一音美しいこと。この曲は、私が10年ほどピアノを続けてきて厳しい練習と部活や学業の両立に耐えて両親が離婚し母が家にいない生活が始まりかけた頃であった。この頃から「報われない」意識と「努力の末の結果」が空虚であるものとの認識が始まった。世の中はこの繰り返しなのだと、2013年ごろ…テレビ局で働いたときに思った。私がつらい時に頼れば、人に言いふらされ馬鹿にされる。ストレスが限界で人に寄りかかりたいときに、笑いものにされる。とっくに限界を超えているのに…。

 

そもそも君らは私と同レベルの努力と知能を持ち合わせているのか?なぜ人は優越感にひたる?

私はピアノが好きだった。要がなくてもピアノの前に座ってた。弾くものがなくても鍵盤に触れてた。目で楽譜を追うのが好きだった。けど、小学校高学年になって本気で音楽を学び始めた頃から自分の限界とか柔軟さがないことをわかっていた。声楽と座学とのバランスが難しかった。言うたら、塾(数学と英語)と、剣道と、ピアノ(声楽・座学・演奏)と学校の両立がめちゃくちゃ難しかった。母のイライラがすごくて一人でいるほうが気楽で10㎞ぐらいの距離を自転車で通っていた。

祖母と祖父はいつも通りだったが、景気のせいかだんだん職人さんも事務員さんもいなくなり人が消えていった。祖母がクリーニング屋をはじめて、お客さんは多かった。それは素晴らしかった。

この奏者の容姿は祖母と似ている。一音一音、一日一日真面目に生きた祖母と似ている。無駄な日など一日もない。私もそう思いたいのだが…どうしてか楽をして生きている人間が成功しているようだ。私はもっと拒絶をしたほうがいいのだろうか。拒絶をしても離さない、離さずに何も私に楽を与えない人物がここにはいる。そういう時どうすればいいのか。わからない。

どこにいってもいいことはない。ただ、電車にゆられている時が幸せ。電車で死にたい。